ムーディーでシネマティックなストリートフォト。『文豪ストレイドッグス』の太宰治にインスパイアされた若い男が、混沌とした夜の街を漂っている。オーバーサイズのトレンチコートを前衛的なストリートウェアの上に重ね着し、アシンメトリーなカット、流れるような生地、首と手にはゆるく巻かれた包帯。ポケットに手を突っ込み、静かで距離のある視線。ネオン看板、濡れたアスファルト、モーションブラーのかかった群衆、グラフィティの壁。コントラストの強いライティング、柔らかなフィルムグレイン、浅い被写界深度、35mmレンズの視点。くすんだブラウン、深いブルー、電光のようなシアンの差し色、空気感のある霞んだトーンのカラーパレット。
暗室を出た最初の日、太宰がフレームに歩いてきた
暗室の鍵を最後に使ったとき、合わない別れの挨拶が喉をひっかくみたいに、鍵穴をひっかいた音がした。肩でドアを押さえ込みながら鍵を回そうとして、「もっと強く回せば時間だって巻き戻せるんじゃないか」なんて、バカげたことを考えていたのを覚えている。
フィルムカメラは二十年ずっと、心配事をいじるための石みたいに、ずっと手の中にあった。親指ですり減って、理屈抜きに安心できて、頭が走り出しそうになるといつもそこにある。大事だったのは「儀式」そのものだ。シャッターが金属的に小さく咳き込む音。巻き戻しクランクが、むき出しのフィルムを秘密を飲み込むみたいにカートリッジに引き戻す感触。いくらこすっても手から消えない定着液の匂い――鋭くて、薬品じみていて、真夜中の病院の廊下みたいな匂い。
そして、最後まで頼りにしていたラボが店を閉めた。
「少し休業します」でもなく、「縮小営業します」でもなく、閉店。湿気で端がめくれかけた手書きの張り紙がガラスに貼ってあるだけ。ポケットに3本のフィルムを入れたまま外に立ち尽くして――正直に言うと、裏切られたような気分だった。指先は冷たくて、それが単に気温のせいなのか、それとも頼りにしていたものが勝手に降りてしまったせいなのか、自分でも判然としなかった。
だからデジタルのボディを買った。メーカー名は書かない。乗り換え相手の名前を言うみたいで気が引ける。(それに、こうしてタイプしていると、首があの「画面を見すぎたときの」おなじみのこわばり方をしている。フィルムはそんな症状はくれなかった。その代わり、薬品の頭痛をくれた。毒の種類が違うだけだ。)
そして、そのすっぱい移行期の1週間に、こんなフレーズを目にしてしまった。こんなに刺さるはずのないフレーズだ。
「文豪ストレイドッグスの太宰治が、アヴァンギャルドなレイヤーと余裕をまとい、ストリートウェアのカオスの中を漂う。」
ルックブックのキャッチコピーと熱にうなされた夢を足して二で割ったみたいな文句だ。でも同時に、フィルムをやめて以来、うまくいかずにやろうとしていたことの、まさに説明にもなっていた。漂い続けること。構図を組み続けること。粒子を失うことが肌を失うことではないと、なんとか言い聞かせ続けること。
「イージーさ」を信用しないのに、それでも追いかけてしまう
フィルムは「なめらかすぎるもの」を信じるなと教えてくれた。肌がきれいすぎるとプラスチックになる。黒が完璧すぎると死んだようになる。フィルムが一貫してこっちをよく見せてくれないところが好きだった。あるロールはやさしく、別のロールは容赦ない。メディウムそのものに機嫌があるみたいだ。
デジタルは、その一方で、「イージーさ」を売り文句にしてくる。「イージーさ」は、習慣をワークフローに差し替えたことを忘れさせたいときに、営業が口にする言葉だ。でも太宰の持つ種類のイージーさ――少なくとも、ストリートウェアのカオスとアヴァンギャルドなレイヤーの中に生きるバージョンのそれは、便利さには見えない。ノイズの中を歩きながら、それを身にまといはしても、まとわりつかせないことのように見える。
群衆を撮ってきた年月は長い。フィルムでは、群衆は一つの生き物になる。ひじ、バッグ、タバコの火、そしてときどき、水面から顔を出す魚みたいに浮かび上がる顔。デジタルでは、群衆はデータになる。あとからズームして、切り出して、補正して、シャープにできる。強力なのは確かだ。でも、力があることと、優雅であることは、同じではない。
コートの裾をひるがえし、包帯はぞんざいな句読点みたいで、退屈半分・愉快半分の表情をしている太宰は、フレームの中で唯一、「世界に意味を求めていない」ように見える。そのイージーさを、私はうらやんでいる。カメラのそれではなく。
それでも……ここで一拍ためらうのは、「イージーさ」という言葉が、降参を売り込むときにも使われるからだ。イージーさ、つまり「もう抵抗しないで」「もう気にしないで」「あとはソフトに任せればいい」。それは、私が欲しいものではない。
ストリートウェアのカオス:みんながムードボードみたいに服を着るとき
私はランウェイの人間じゃない。歩道の人間だ。裾にほこりがまとわりつき、地下鉄のポールで袖口が黒ずみ、スニーカーが古い革張りの椅子みたいにきしむ、そんな服の方に興味がある。ストリートウェアが本当に面白くなるのは、「生きられた」あとだと、ずっと思っている。
でも最近のストリートは、常に新作ドロップ会場みたいに感じられる。同じ三つのシルエット、同じ「計算された偶然」、同じオーバーサイズのレイヤーを、みんなが着ている。それは確かにカオスだけれど、多くの場合、とても組織化されたカオスだ。写真撮影用に演出された「散らかった部屋」みたいな。
そんな中を太宰が漂っている――そこが引っかかる。彼は「スタイリングされた人」には見えない。「気にしていない人」に見える。そして、この「気にしていなさ」は、今やとても珍しい。反逆でさえ値札とハッシュタグがつく時代だ。
ときどき私は、みんなが「自分で選んだわけでもないイメージに属していること」を証明するために服を着ているように見えることがある。そして次にこう思う。たぶん、それは昔からそうで、単に私が年を取って、機嫌が悪くなっただけなんだろう、と。
話がそれるけれど、ここでいちばんフィルムが恋しくなる
フィルムでは、背面モニターを見て「自分がイケて見えるか」を確認することはできなかった。自分のかっこよさにせよ、不器用さにせよ、その瞬間に賭けるしかなかった。その意味では、誠実だった。デジタルは、勇気をリアルタイムに編集させてくれる。それがいつも「進歩」とは限らない。
それから――これはささいだけど、現実の話――フィルムは、全員の動きを遅くしてくれた。デジタルは、歩道をライブプレビューみたいな空間にしてしまう。
アヴァンギャルドなレイヤー:コートという議論
本物のアヴァンギャルドなレイヤリングは、心地よくなんてない。布と布がケンカしている。常識的なバランスを謝らないプロポーション。あるはずのないところに落ちる肩線。屋内では少し暑く、屋外では少し寒い。なぜなら、その装いはまず「アイデア」であって、「防寒具」は二の次だから。
デザイナーやスタイリストを撮ってきてわかった秘密がある。最高の「 effortless(さりげない)」レイヤリングは、たいてい誰にも見えない小さくて不格好な妥協で支えられている。隠された安全ピン。湿気ですぐダメになる両面テープ。スタイルのためじゃなく、単に袖口が汚れているからまくられた袖。
そしてこれは、多くの人が聞かないディテールだが、夜中の2時、蛍光灯のホテルの部屋でスタイリストの背後に立っていれば耳に入る。「アヴァンギャルドなレイヤリング」のかなりの部分は、仮止めのしつけ縫いで「盛られて」いる。大きくて雑な糸のループで、撮影後に引きちぎる前提のやつだ。自然に見える折り目を作りつつ、形が崩れないようにするための細工。針を口にくわえたスタイリストが、仕立て屋の海賊みたいな顔で、モデルが震えている横で悪態をつきながら縫っているのを何度か見た。
とはいえ――ここで一つ検証しておきたい。雰囲気づくりのために神話を持ち込むつもりはない。しつけ縫いが実在するテクニックなのは確かだし、仮縫いやフィッティング、撮影中に「とりあえず形をもたせる」ために使われることも本当にある。ただ、「アヴァンギャルドなレイヤリングの多くが、いつでもどこでもそうだ」とまで言える統計があるわけじゃない。単に、私はそれを何度も見てきた。だから、裏方の冷えた真実として頭にこびりついている、というだけだ。
それに対して、私の頭の中の太宰のルック――あの見出しを読んで浮かぶ姿――には、しつけ糸の気配がない。レイヤーが彼に選ばせてもらったというより、レイヤーの方が彼を選んだみたいに感じる。そういうスタイリングは、コスチュームではなく、キャラクターとして読める。
イージーさ:漂うことと、ただ浮かぶことは違う
本当に大事なのは「drifts through(漂う)」という動詞だ。「struts(闊歩する)」でも「dominates(支配する)」でもない。漂う、だ。漂うということは、街に流れがあって、自分はそれに身を任せている――けれど、背骨までは手放していない、ということだ。
フィルムで撮っていたころ、私は必然的に「漂う」側だった。撮れる枚数は限られていて、すぐに結果は見られない。動いて、見て、待って、切る。デジタルは私を「ハンター」に変えた。撮れるだけ撮れるから、撮りすぎるようになった。ハードディスクは「たぶん使うかもしれない」カットの埋め立て地になった。
デジタルに追い込まれて、くだらないけど本当のことに気づかされた。私は、制限があるからこそ決断的でいられたのだ。太宰のイージーさに感じるのは、その決断力だ。彼は、「この装いが成立しているかどうか」を証明する必要がない人に見える。もう、そこから立ち去りかけている。
もうひとつ余談の告白:露出計をごまかしていた
昔のフィルム撮りが、混ざった光の中でこっそりやっていた、少し後ろめたい小技がある。ちゃんと露出を測る代わりに、わざとハーフストップくらいオーバーに振るんだ。影があざみたいに潰れないように。そのやり方は「正しい」わけじゃないけれど、少しやさしい。そう教えてくれたのは、シガレットペーパーにメモを書きつけて、決して「お願いします」とは言わない、年老いた報道カメラマンだった。彼はそれを「影の税金を払う」と呼んでいた。
技術的に言えば、「シャドウを守るためにオーバーに撮る」というのは、ネガフィルムのワークフローでは知られた癖だ(カラーネガはハイライトの許容量が広い。リバーサルはそうでもない)。ハーフストップが絶対のルールというわけではない。1ストップのこともあれば、ゼロのときもある。でも、その「影に少し多めに払う」本能そのものは、本物だ。
デジタルは、「影はあとでいくらでも起こせる」と教えてくる。フィルムは、「影は、どう扱われたかを覚えている」と教えてくる。
華やかさが死ぬ写真の裏部屋から、冷たいディテールを二つ
あまりに小さくて、あまりに面倒だから、「写真談義」の場にはまず出てこない。でも、人が崇拝するイメージをこっそり形作っていることがらを、二つだけ挙げておきたい。
大きなストリートスタイルの撮影では、実は強い香水がこっそり禁止されていることがある。 マナーのためじゃない。香りがレンタル衣装に残って、返却時のトラブルになるからだ。私は「ナイトクラブみたいな匂いがするジャケット」を巡って、プロデューサーとスタイリストが言い争うのを見たことがある。そのジャケットは、私の初めての車より高かった。口論は撮影より長く続いた。
検証メモ: これを裏付ける「業界標準」のルールブックを挙げることはできないけれど、香りの制限が、ランウェイやエディトリアル、CMなど、衣装を多く使う現場でよくあるのは確かだ。理由は単純で、残り香+繊細な生地+レンタルの責任問題、という組み合わせ。陰謀というより、頭痛を抱えた退屈な制作進行が、現場で決めるルールに近い。スタイリストとレタッチャーの間には、布の質感をめぐる静かな戦争がある。 スタイリストは頼む。「ウールの質感を消さないで。シワを消さないで。そのシワこそがポイントだから」。でもレタッチャーは、クライアントの圧で、たいてい消してしまう。その結果、「アヴァンギャルドなレイヤー」は、最終的な画像の中で、ときどき発泡スチロールの造形みたいに見えてしまう。私は、編集後のデータを見た瞬間に、誇りに思っていた傷跡をヤスリで削られたみたいに、急に黙り込んだスタイリストを見たことがある。
検証メモ: これは、より広いレタッチ論争――「リアルなテクスチャー」か「商業的なツルツル」か――の縮図みたいなものだから、あまりにありそうな話だ。具体的な統計があるわけじゃない。ただ、モニターのそばに長く座っていれば、何度も繰り返し目にするパターンだ。
この二つの小さな争いが、「イージーさ」を写真に収めるのを難しくしている。イージーさは脆い。完璧にしようとした瞬間、死んでしまう。
デジタルという問題としての太宰:きれいすぎて、信じられない
今や私は、技術的には非の打ちどころのない画像を作れる。糸の本数まで数えられそうなシャープさで、肌はアイロンがけされたみたいにクリーンだ。だからこそ、カオスの中を漂う太宰のことばかり考えてしまう。彼には、ありえなさが必要だからだ。
デジタルが望むやり方――ピンシャープで、ノイズレスで、ダイナミックレンジを誇示する――で彼を撮ったら、パーカーのタグに印刷されたイラストみたいになってしまう。肝心な部分が蒸発する。
だから私は、自分のデジタル写真を、必要な範囲でわざと台無しにしはじめた。あえてアンダーで撮って、現像で持ち上げ、黒がざわつき始めるところまで持っていく。街灯の光が、古いネガみたいに白飛びするのを許す。グレインも足す。ただし、礼儀正しく均一なノイズじゃない。平らな面が打ち身みたいに見えてくる、ムラのあるグレインを足す。
それはフェイクか?もちろん、完全にフェイクだ。気にするか?昔ほどは気にしない。
デジタルを「強いられた」ことは、カメラだけでなく、「純度」に対する私の許容量も変えてしまった。フィルム原理主義者は、苦しみこそが本物だと振る舞うのが好きだ。かつての私もそうだった。今の私は、本物とは「どんな妥協を選んだのかを、ちゃんと言葉にすること」であり、その証拠を画像の中に残しておくことだと思っている。
もし彼を、私の街角に立たせるなら――そんな撮り方
私は、うるさいけれど綺麗ではない場所を探すだろう。チカチカと点滅するコンビニの看板、油の虹が浮いた水たまり、スクーターの甲高いエンジン音。雨上がりのすぐあと、空気が金属っぽい味になって、路面からの反射光が顔を下から照らす時間帯がいい。(あの金属っぽい味――オゾンか、排気ガスか、記憶か――は、いつも祖父の工具箱を思い出させる。なぜかはわからない。脳なんてそんなものだ。)
レンズは、ストリートウェアを撮るフォトグラファーが好むより、少しだけ長めを選ぶ。距離感が欲しいからだ。漂うには、スペースが要る。彼をセンターには置かず、フレームからすべり落ちていく位置に置くだろう。街が彼を捉えきれないかのように。
そして、「スタイリング」を殺す瞬間を待つ。レイヤーの一枚が変な方向に風をはらむ瞬間、袖がぐしゃっと寄る瞬間、身体が「見られている」ことを忘れる一瞬。その隙間に、イージーさは住んでいる。ポーズの中ではなく、ポーズが失敗した瞬間に。
たぶん、これは本当はファッションの話じゃない
ストリートウェアのカオス、アヴァンギャルドなレイヤー――いいだろう。でも、あの見出しから私が本当に読み取っているのは、生き延びるためのやり方だ。
太宰がカオスの中を漂っているのは、「そのカオスに自分が所有されていない」という幻想だ。ノイズを身につけながら、ノイズになってしまわないこと。重たいブランディングや、重たい意見や、重たい期待に囲まれながらも、身軽でいること。
それがちょうど、私がフィルム人生を喪っていたあのタイミングで、心に刺さった理由だと思う。
私にとってフィルムは、漂うための方法だった。デジタルは、すべてをピンで止めて、説明しすぎて、クリアにしすぎる方向へと私を引っ張る。太宰のイージーさは、フレームの中に「未解決なもの」を残しておくことを思い出させてくれる。見る人の疑いの余地を残すこと。服装の複雑さを許すこと。街の醜さをそのままにしておくこと。古いプロセスを失ったことへの苛立ちやセンチメンタルさや、少し子どもっぽい未練でさえも、そのまま許してやること――それを、スタイルにまで硬化させないままで。
ラボが閉まったことには、まだ折り合いがついていない。濡れたネガが乾くのを待ちながら、エマルジョンが薄い皮膚みたいに光を拾うあの感じが、今も恋しい。でも私はここにいる。礼儀正しすぎるデジタルカメラを手にしながら、もう一度「漂う」ことを学び直そうとしている。
太宰が、ストリートウェアのカオスの中、アヴァンギャルドなレイヤーに包まれながら、「もっとマシな場所があるんだ」と言わんばかりに歩いていけるなら――私はつい考えてしまう。すべてを即座に見られるようになった今、私の漂い方は、いったいどんな形になるんだろう?ソフトが「直させてくれ」と懇願してきても、私が最後まで「直さない」と決めるものは何なんだろう?
答えはまだない。ただ、街角と、雨と、きれいすぎるセンサーと……そして、データの中にわざと少しだけ砂利を残しておく、という決心だけがある。